2013年7月13日土曜日

盲学校マジックの前例~後日談~



前回記事にした盲学校マジックの前例。その後日談を紹介します。





そのブログで後日談として話題になっていたのは、マジックショーではなくてスキーの話でした。




スキー場にて



そのマジシャンさんとお弟子さんが、スキー場に行ったとき、突然後ろから声を掛けられたそうです。

「あ!マジシャンだ!」

それは、マジックショーをした盲学校の子どもたちだったという話です。
マジシャンさんもお弟子さんも、突然の出来事に驚き、覚えていてくれたことに喜び、そして盲学校の子どもたちに発見されたことをどこか不思議に感じたそうです。



盲学校の子どもたちから声をかけられたこと



ただそれだけの話なのですが、僕はこの記事を、興味深く読みました。

全盲の子どもって、僕達が今ただ目が見えなくなっただけとは違う感覚を持っているみたいです。
それは決して特殊能力ではないのですが、生きてきた中で世界を感じてきた知覚プロセスが根本的に違うのですから、僕等の思う世界の感じ方とは、違う世界の感じ方をしています。

この、マジシャンさんが声をかけられた事例も、声をかけた生徒が弱視だったとか、その時マジシャンさんがお弟子さんと話をしていたとか、子どもにとってそこに「あのマジシャンがいる!」と知覚できるようなダイレクトな要因が有ったのかもしれません。

しかし、それだけではないと当時の僕は思いました。



感覚の共有



ここからさらに僕の想像の世界に入っていきます。いろいろな盲学校での事例を眺めていると、どうも先天的に全盲の子どもって、仲のいい友達と「感覚を共有」できてるんじゃないかなと思えてきます。

これも、再三言うようですが、特殊能力が有るとかそういう話では有りません。生きていく中、世界を知覚していく中、ごく自然に、でも努力して身についた感覚なのだと思います。
感覚の共有って、例えば、仲のいい友達が嬉しいと自分も嬉しい、友達が悲しいと自分も悲しい。

それは決して、友達が○○ということで悲しんでいることがかわいそうだ、とか、友達に□□という良いことが有ってそれがとても喜ばしい、とか、そういうレベルではないのです。

ダイレクトに、友達が喜んでいると自分も嬉しくなるとか、そういう感じです。
晴眼の方でも、なんとなく経験の有る方も多いと思います。
それぐらい、感覚の共有は自然に起こり得る感情の動きなんだと思いますが、全盲の子どもにはそれがなんだか顕著に思えます。




この例でも、感覚の共有



スキー場の例でも、きっとまず誰かがそのマジシャンさんを見つけたのでしょう。
それは弱視の子かもしれませんし、晴眼の先生なのかもしれません。
しかし、「見つけた!」という感情が、みんなに伝わり、そんな感情の共有から、盲学校の生徒たちによるマジシャンさんの「発見」に繋がったのではないか。僕は、そう思わずにいられないのです。

そして僕が盲学校に勤め、どんどんその思いは確信に変わってきています。




自分自身の「盲学校マジック」の経験から



僕が盲学校マジックをやった後も、正直しっかりと手品を楽しめていないと思われる生徒(そういう生徒がいることが反省点なのですが)から、すごかった!不思議だった!!というコメントを頂きました。

なぜ不思議だと感じたのか、その答えの一端が「感覚の共有」にあるように思っています。


盲学校でマジックをするというと、色々な方からアイデアを頂きます。

「音でやるマジックとかどう?」
「手に持ってるものがワッと増えるとか。」
「匂いの移動マジックとかどうかな。」
「できそうな数理マジックなら知ってるよ。」


もちろんそういう所からのアプローチって、大事なんだと思います。
実際、今はそういった「視覚以外の知覚」から攻めるマジックを色々模索しています。

しかし、それだけではないと思うのです。


その場には、全盲の生徒以外にも弱視や晴眼の生徒がいると思います。
そしてその生徒たちは、全員とは言わなくても仲の良いもの同士が集まっていると思います。
そこで、全盲でも、弱視でも、晴眼でも、みんなが楽しめる、誰もが「不思議だ」と感じられるマジックをすれば、「感覚の共有」でみんながすごく不思議に感じられるのではないかなぁと思っています。

本当に、勝手でとりとめのない、空想の理論なのです。でも、追い求めて悪いことはないだろうという楽観的な気持ちで、高い理想を追いかけています。
かつてブログで見た、この後日談の記事は、今でも僕が目指す「盲学校マジック」の中核となる哲学を作ってくれたと思っています。


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